2015年4月6日月曜日

キリスト教と僕

少しだけ編集しました**

ファーストフード、握手、ヤード・ポンド法、チップ、気さくな会話、etc...


このように、アメリカ留学をしていれば避けては通れない習慣、慣習がたくさんありますが、
それの1つにキリスト教があります。

自分の周りを見渡してみれば、キリスト教信者で、神の存在を信じている人がたくさんいます。
ルームメイトから大学教授まで、気が付けば、いつも付き合っているアメリカ人友達もキリスト教だと知って驚いたり。


最近は、そんなキリスト教と正面から向かい合うような経験が小さいことから大きいことまで三つほどあったので、それについて短く書いていきたいです。


1つめは、そして自分にとって最も意味深かったことは、




人生で初めて、聖書(bible)を手にいれたことです(写真が見にくくてすみません)。


自分はクリスチャンではありません。
不条理が蔓延している世の中で神の存在なんて信じられません。


ただ、人間の起源、人の生き方、神の存在について、独自の考察を述べたキリスト教の教義は興味深く、触れてみて何かしら思うところがあるのは事実です。
アメリカ人の考え方にも、少しだけ近づけるかもしれません。


とはいうものの、自分が最終的に聖書を買う理由になったのは、こちらにいて出逢えた1人の女性です。
前回のブログでも少しだけ登場した彼女は、モン(ミャン)族で、ベトナム戦争を逃れてアメリカにやってきた移民家族の子孫になります。


彼女の過去の経験や、現在の生き方についてもともと惹かれるものはすごくあったのですが、
そんな彼女の根幹にあったのがキリスト教だと知ったや否や、それを無視することはできません。
日本という国で、平和ボケという病気にかかっていた自分は、自分とは当たり前のように違う彼女についてもっと知りたいと思いました。

-目もふさぐような辛い過去を経験して、どうして今、そこまで明るく振る舞うことができるのか?
彼女ならきっと、世の中のどんな不条理な現実にも意味づけをすることができるのでしょう。
自分には無理です。心が折れます。なぜ彼女にはそれが可能なのか。

-どうして、そこまで他者に優しさと共感を示すことができすのか?
自分にとって重要な他者に示す善行ならば、まだ理解できますよね。だって、見返りが期待できるから。
ええそうです。自分の善行はすべて偽善です。もし、自分が何か善いことをしていることを遭遇したら、
そこには何か見返りがあるからだと理解してください。観察をしても良いですが、獲物の横取りはしないでください。
優先順位を示すならば、こんな感じです。
 
 自分 > 自分にとって重要な他者 > 自分にとって重要ではない他者

彼女はどうして、自分を犠牲にできるのか。


-虫に対してすごく冷酷なのはなぜ?
蝶や蛾、その他昆虫一般に対しては、隣人愛もくそもありません。
自分の方がよっぽど、慈愛に満ちてきます。


五回寝ても珍しく心変わりすることのなかった自分の脳は、彼女の考え方に近づくために、
聖書を読んでみようかなと決心したのです。


そして今回手にいれたこの聖書は、実は、そんな彼女にプレゼントしてもらったものです。

アメリカ留学をして手にいれた、一番の宝物です。

そして、彼女も、自分の宝物のように喜んでくれるのです。



二つ目は、イースター祭(復活祭)についてです。

中学校の時に、英語の教科書に少しだけ登場したことがあるようなないようなこのイベントは、
イエスキリストの復活を祝うもので、アメリカでは国あげていわうようなイベントです。

詳しくはよく分かりません。
バディのJenna と、他の日本人留学生と一緒に卵に色を塗って遊びました。




それだけです。

お菓子を隠してそれを見つけるイースターエッグハンティングはしませんでした。
カリフォルニア州は残念ながら、祝日という扱いにはなりませんでした。
着色するために使った色のついた液体は、植物性で人体には無害らしく、
この卵も殻を剥けば食べれるみたいなのですが、自分は食べませんでした。



三つ目の出来事は、本日初めて訪れた教会について。

向かったのは、ダウンタウンの輪郭に面している地元のそこまで大きくない教会です。
イースター当日ということで、一年に一回の特別な会だったようなのですが、現地に着くや否や、
たくさんの人でごった返しです。

教会の椅子に座り、行ったことは主に二つ。
牧師さんのえらいお言葉と、観客交じりの大合唱です。

牧師さんはユーモアにあふれ、ときどきジョークを織り交ぜては、聖書の一節から教えを説いていました。
日本に住んでいたことがあり、英語教師や新聞局で働いていた経験があると知ったのは、会が終了した後のおしゃべりの時でした。その時にご飯にも誘われました。

その日出会って数分話しただけでご飯に誘うなんて、さすがアメリカ。


大合唱は、自分が面白いなと感じた部分でもあり、パワーポイントのスライドに歌詞を表示し、
全員でキリスト復活に際したる歌を合唱しました。

合唱中にギターを演奏する人もおり、なんだか自分のイメージしていた固い集まりとは、
ひどくかけ離れていたように思います。



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この週末に経験した、キリスト教と自分との関係は、こんな感じです。
疲れと、じわじわと押し寄せてくる宿題への危機感から、後半は少し煩雑になってしまいました。


日本で「宗教」というと、なんだか怪しかったり、ネガティブなイメージがあるような気がしますが、
アメリカではまったくそんなことはありません。

自分とは異なる考え方を持っていても、それを受け入れる寛容力があるのがアメリカです。

お互いを尊重し合い、神やイエスとのつながりのもとで、自分の存在に意味と救いを求めるのが
キリスト教信者です。


先にも述べた通り、自分は神の存在について信じることはできませんが、
その一方で、本当は、本当は、信じてみたい気持ちはあります。


小さな次元の話ですが、いつも自分を見守っている神がいるとすれば、少し、いつもより頑張ったり、
良いことをしようという気持ちになりませんか?

例えば、
勉強中に Facebook を覗いて友人を監視する回数がへったり、
道に落ちているゴミをちょっと拾ってみようかなと思ったり、
後ろから来ている人のためにドアを開けて待っていたり、

そういったことに注意がむいて、世の中が少し良くなっていくんじゃないだろうか。


そして今これを書いていてふと思ったのは、ミャン族の彼女は、そういう世界に生きているのかもしれないということ。

人からの直接の見返りを求めているわけじゃない。
目には見えない神の存在をいつも感じているから、自分がいつも行っているような偽善とは違った形で、
他者へ善を示すことができるのだろうか。
だからこそ、他者への見返りを期待したにごった優しさではなく、神からの承認をもとめた、自分とは違う優しさを発揮できるのだろうか。





いや勝手な推測ですけどね。今度聞いてみます。


別に神という形ではなくても、例えば、死んだご先祖様でもおばあちゃんでも誰でも、
自分たちの理解には及ばないような、存在を超越した、目には見えない何かがあるのだと信じれたらば、
世の中は少しずつ良くなっていくのでは、と思う。

Be selfless.
Be serious.
Be vulnerable.


自分は、本当は信じたいし、変わりたい。


あああと12分で授業だ。

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