2015年4月30日木曜日

Roooooookie Tournament



先日、嬉しいことがあったので報告させて下さい。


2月5日の記事でもちらっと紹介しましたが、自分は今、コミュニケーション学を専攻している生徒向けの、スピーチに関する理論を学び実践する Speech Communication Fundamentals という授業を受講しています。

そこで、先週の土曜日、この授業を受講している生徒が、今学期の学習の成果を披露する場として用意されている、Rookie Tournament というスピーチコンテストに参加しました。

全体のテーマは「テクノロジー」で、参加者はテクノロジー分野から、具体的なトピックを一つ選び、その分野に関する問題点、原因、解決策について9分間でまとめ、聴衆を説得します。

自分が選んだテーマは「オンライン教育」で、アメリカの教育格差を解消する手段としてのオンライン教育の可能性についてスピーチしました。



午前8時から午後7時まで続いたこのコンテストでしたが、




150人中、4位に入賞することができました。

正直、信じられませんでした。

日本人は自分1人だけだし、英語だってネイティブほどに流暢に話せないしで、不安で不安で、同じクラスのアメリカ人にひたすら発音の矯正をお願いしていました。

特に、"Bureau"と"Problem"。

これらの単語は自分のスピーチで何回も登場するくせに、発音が難しく、本当に本当に最後まで苦しめられました。


そんな中、手にすることができたトロフィー。得られたものは3つです。


1つは、英語力に対する理解。

アメリカに来て8か月足らずのかたこと英語を話す日本人でも、スピーチ大会で結果を残すことができる。
つまり、英語ができないということは、必ずしもコミュニケーションができないということではない。
表情とか、ジェスチャーとか、みせかけの自信とか、足りないものを補う手段はいくらでもあるんだなと。
もし英語が話せなくて悩んでいる人がいたら、深呼吸をして、今の自分でもできることに目を向けてみると、あなたのコミュニケーションが変わるかもしれません。


2つ目は、自信。

アメリカで一番手にいれたかったものです。
例え、英語ができなくても、コミュニケーション学を専攻していなくても、日本人でも、田舎出身でも、背が高くなくても、結果を出せる。

自分を肯定してあげたくなりました。

3つ目は友達。

先にも述べましたが、このトーナメントを通して、たくさんのアメリカ人クラスメイトに助けられました。
特に、Stephany, Brendan, Hanna, Selma. あんまり授業中は話さないけど、こうやってみんなが何か同じ一つのことに挑戦すると、妙な連帯感と結束感がわくもので、一緒にご飯を食べたり、作戦について話し合ったトーナメントは、すごく緊張したし、楽しかったです。


*入賞後、みんなの写真を撮ったのですが、教授のカメラで撮ったため、また彼女から送られてきた際には、編集してアップロードしたいです。



☆まとめ☆

今回のトーナメントは、自分にとって大きな挑戦でした。
クラス内でのスピーチと違って、聴く人の数は多いし、知らない人ばかりだし、英語力についても不安だし…。
でも、そんな環境だからこそ、得られたものも非常に大きかったです。

今回は、Rookie Tournament という形でしたが、別にどういう機会かに限らず、こっちに来て、試してやってみたものの中で、後悔したことは今のところ一度もないです。
(準備に追われ、授業は何回かスキップしてしまいましたが…)

アメリカへの留学を考えている人で、何の授業をとろうか迷っている人がいれば、「自分のキャパシティをちょっと超えているかな?」てくらいの感じの授業をとると、得られるものが多いかもしれません。

「自分には出来る自分には出来る自分には出来る」て言い聞かせながら挑戦した先で、
「あっ自分には出来たんだ」て新しい自分に気付くことができるかもしれません。


2015年4月6日月曜日

キリスト教と僕

少しだけ編集しました**

ファーストフード、握手、ヤード・ポンド法、チップ、気さくな会話、etc...


このように、アメリカ留学をしていれば避けては通れない習慣、慣習がたくさんありますが、
それの1つにキリスト教があります。

自分の周りを見渡してみれば、キリスト教信者で、神の存在を信じている人がたくさんいます。
ルームメイトから大学教授まで、気が付けば、いつも付き合っているアメリカ人友達もキリスト教だと知って驚いたり。


最近は、そんなキリスト教と正面から向かい合うような経験が小さいことから大きいことまで三つほどあったので、それについて短く書いていきたいです。


1つめは、そして自分にとって最も意味深かったことは、




人生で初めて、聖書(bible)を手にいれたことです(写真が見にくくてすみません)。


自分はクリスチャンではありません。
不条理が蔓延している世の中で神の存在なんて信じられません。


ただ、人間の起源、人の生き方、神の存在について、独自の考察を述べたキリスト教の教義は興味深く、触れてみて何かしら思うところがあるのは事実です。
アメリカ人の考え方にも、少しだけ近づけるかもしれません。


とはいうものの、自分が最終的に聖書を買う理由になったのは、こちらにいて出逢えた1人の女性です。
前回のブログでも少しだけ登場した彼女は、モン(ミャン)族で、ベトナム戦争を逃れてアメリカにやってきた移民家族の子孫になります。


彼女の過去の経験や、現在の生き方についてもともと惹かれるものはすごくあったのですが、
そんな彼女の根幹にあったのがキリスト教だと知ったや否や、それを無視することはできません。
日本という国で、平和ボケという病気にかかっていた自分は、自分とは当たり前のように違う彼女についてもっと知りたいと思いました。

-目もふさぐような辛い過去を経験して、どうして今、そこまで明るく振る舞うことができるのか?
彼女ならきっと、世の中のどんな不条理な現実にも意味づけをすることができるのでしょう。
自分には無理です。心が折れます。なぜ彼女にはそれが可能なのか。

-どうして、そこまで他者に優しさと共感を示すことができすのか?
自分にとって重要な他者に示す善行ならば、まだ理解できますよね。だって、見返りが期待できるから。
ええそうです。自分の善行はすべて偽善です。もし、自分が何か善いことをしていることを遭遇したら、
そこには何か見返りがあるからだと理解してください。観察をしても良いですが、獲物の横取りはしないでください。
優先順位を示すならば、こんな感じです。
 
 自分 > 自分にとって重要な他者 > 自分にとって重要ではない他者

彼女はどうして、自分を犠牲にできるのか。


-虫に対してすごく冷酷なのはなぜ?
蝶や蛾、その他昆虫一般に対しては、隣人愛もくそもありません。
自分の方がよっぽど、慈愛に満ちてきます。


五回寝ても珍しく心変わりすることのなかった自分の脳は、彼女の考え方に近づくために、
聖書を読んでみようかなと決心したのです。


そして今回手にいれたこの聖書は、実は、そんな彼女にプレゼントしてもらったものです。

アメリカ留学をして手にいれた、一番の宝物です。

そして、彼女も、自分の宝物のように喜んでくれるのです。



二つ目は、イースター祭(復活祭)についてです。

中学校の時に、英語の教科書に少しだけ登場したことがあるようなないようなこのイベントは、
イエスキリストの復活を祝うもので、アメリカでは国あげていわうようなイベントです。

詳しくはよく分かりません。
バディのJenna と、他の日本人留学生と一緒に卵に色を塗って遊びました。




それだけです。

お菓子を隠してそれを見つけるイースターエッグハンティングはしませんでした。
カリフォルニア州は残念ながら、祝日という扱いにはなりませんでした。
着色するために使った色のついた液体は、植物性で人体には無害らしく、
この卵も殻を剥けば食べれるみたいなのですが、自分は食べませんでした。



三つ目の出来事は、本日初めて訪れた教会について。

向かったのは、ダウンタウンの輪郭に面している地元のそこまで大きくない教会です。
イースター当日ということで、一年に一回の特別な会だったようなのですが、現地に着くや否や、
たくさんの人でごった返しです。

教会の椅子に座り、行ったことは主に二つ。
牧師さんのえらいお言葉と、観客交じりの大合唱です。

牧師さんはユーモアにあふれ、ときどきジョークを織り交ぜては、聖書の一節から教えを説いていました。
日本に住んでいたことがあり、英語教師や新聞局で働いていた経験があると知ったのは、会が終了した後のおしゃべりの時でした。その時にご飯にも誘われました。

その日出会って数分話しただけでご飯に誘うなんて、さすがアメリカ。


大合唱は、自分が面白いなと感じた部分でもあり、パワーポイントのスライドに歌詞を表示し、
全員でキリスト復活に際したる歌を合唱しました。

合唱中にギターを演奏する人もおり、なんだか自分のイメージしていた固い集まりとは、
ひどくかけ離れていたように思います。



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この週末に経験した、キリスト教と自分との関係は、こんな感じです。
疲れと、じわじわと押し寄せてくる宿題への危機感から、後半は少し煩雑になってしまいました。


日本で「宗教」というと、なんだか怪しかったり、ネガティブなイメージがあるような気がしますが、
アメリカではまったくそんなことはありません。

自分とは異なる考え方を持っていても、それを受け入れる寛容力があるのがアメリカです。

お互いを尊重し合い、神やイエスとのつながりのもとで、自分の存在に意味と救いを求めるのが
キリスト教信者です。


先にも述べた通り、自分は神の存在について信じることはできませんが、
その一方で、本当は、本当は、信じてみたい気持ちはあります。


小さな次元の話ですが、いつも自分を見守っている神がいるとすれば、少し、いつもより頑張ったり、
良いことをしようという気持ちになりませんか?

例えば、
勉強中に Facebook を覗いて友人を監視する回数がへったり、
道に落ちているゴミをちょっと拾ってみようかなと思ったり、
後ろから来ている人のためにドアを開けて待っていたり、

そういったことに注意がむいて、世の中が少し良くなっていくんじゃないだろうか。


そして今これを書いていてふと思ったのは、ミャン族の彼女は、そういう世界に生きているのかもしれないということ。

人からの直接の見返りを求めているわけじゃない。
目には見えない神の存在をいつも感じているから、自分がいつも行っているような偽善とは違った形で、
他者へ善を示すことができるのだろうか。
だからこそ、他者への見返りを期待したにごった優しさではなく、神からの承認をもとめた、自分とは違う優しさを発揮できるのだろうか。





いや勝手な推測ですけどね。今度聞いてみます。


別に神という形ではなくても、例えば、死んだご先祖様でもおばあちゃんでも誰でも、
自分たちの理解には及ばないような、存在を超越した、目には見えない何かがあるのだと信じれたらば、
世の中は少しずつ良くなっていくのでは、と思う。

Be selfless.
Be serious.
Be vulnerable.


自分は、本当は信じたいし、変わりたい。


あああと12分で授業だ。